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八月未央 自慰 说念徳耕种に係る評価等の在り方に関する専門家会議(第2回) 議事録

发布日期:2024-09-05 03:04    点击次数:119

八月未央 自慰 说念徳耕种に係る評価等の在り方に関する専門家会議(第2回) 議事録

1.日時

平成27年7月15日(水曜日)15時~17時八月未央 自慰

2.場所

文部科学省東館3階 3F2特別会議室 東京都千代田区霞が関3-2-2

3.議題 問題解決型学習の導入など说念徳耕种の改善に関するヒアリング 说念徳耕种の評価の改善について その他 4.議事録

【天笠座長】  说念徳耕种に係る評価等の在り方に関する専門家会議第2回を開会します。本日は御多忙中,また大変暑い中,御出席いただきまして,誠にありがとうございます。  本日は八月未央 自慰,吉田委員が欠席です。  配布資料の確認を,事務局よりお願いいたします。

○ 事務局からの配布資料の確認

【天笠座長】  これより議事に入りたいと想います。  本日は,問題解決的な学習の導入など指導の改善に関するヒアリングと,说念徳耕种の評価の改善についてという議事で進行したいと想います。  まず,今月3日に学習指導要領解説が公表されましたので,事務局から实质等について説明をお願いします。 【合田耕种課程課長】  今月3日に公表いたしました学習指導要領解説につきまして,そのポイントを説明させていただきます。  学習指導要領の解説は,学習指導要領の趣旨をより詳細に分かりやすく説明するという観点から,文部科学省が学校種,教科ごとに作成する解説書です。学習指導要領の一つずつの文言を説明したものと御连结いただければと想います。これは,第一線の教壇にお立ちの先生がその指導の参考にしていただくと同時に,教科書会社が教科書を作成する際に,学習指導要領の考え方を知る手だてとするものです。说念徳の時間が「特別の教科 说念徳」として新たに位置付けられたことに伴いまして,解説も全面的な見直しを行い,今月3日に公表しました。  お手元には,参考資料の1から4として配布しています。学校耕种合座で行う说念徳耕种については,総則で記載しています。「特別の教科 说念徳」については,说念徳の時間の解説を全面的に手直しを行いました。参考資料2の小学校学習指導要領解説特別の教科说念徳編に即しまして,そのポイントを簡単に説明させていただきます。  大きく分けて二つのポイントがあります。一つ目は,说念徳の「特別の教科」化の趣旨の明確化です。二つ目は,今回の「特別の教科」化は,说念徳耕种を実質化するとともに,说念徳耕种の質的な転換を図っていくということです。特に後者につきましては,読み物を読んで心思に寄り添った読み取りを重視したこれまでの说念徳耕种から,「議論する说念徳」,「考える说念徳」へと質的に転換する必要があるということです。「特別の教科」化に伴い,従来の指導を変える必要はないということではなく,むしろ積極的に変えていくことこそ,特別の教科として说念徳を位置付けた趣旨です。  そのような観点から,参考資料2の2ページを御覧いただければと想います。真ん中よりも少し下に,「この答申を踏まえ」という著述がありますけれども,今回の「特別の教科」化の結論を出した中教審の答申を援用しながら,「特定の価値観を押し付けたり,主体性をもたずに言われるままに行動するよう指導したりすることは,说念徳耕种が目指す标的の対極にあるものと言わなければならない」という「特別の教科」化の趣旨を説明した上で,「発達の段階に応じ,答えが一つではない说念徳的な課題を一东说念主一东说念主の児童が自分自己の問題と捉え,向き合う『考える说念徳』,『議論する说念徳』へと転換を図るものである」という趣旨を明確にしたものです。解説において,「考える说念徳」,「議論する说念徳」について明確に位置付け,今回の教科化の趣旨を端的に示しました。  それ之外にも,例えば,17ページには,物事を多面的・多角的に考えることについて,87ページには,児童が主体的に说念徳性を養うための指導はどうあるべきかということについて,91ページには,問題解決的な学習など多様な递次を取り入れた指導について,問題解決的な学習の工夫として,どのような観点に力を入れて指導する必要があるのかということを整理して示しています。  94ページから95ページでは,特に95ページで,各教科で行われている題材を说念徳耕种の中で生かしながら,各教科と連携し,まさに学校耕种合座で行う说念徳耕种の要として,说念徳科をどう機能させるかということについて解説しています。  实质項目の解説についても触れさせていただきます。46ページでは,「互相连结,寛容」について解説しています。「互相连结,寛容」についてどのように指導するかという観点から,「また,寛大な心をもって他东说念主の過ちを許すことができるのは,自分も過ちを犯すことがあるからと自覚しているからであり,自分に対して謙虚であるからこそ他东说念主に対して寛容になることができる。このように,寛容さと謙虚さが一体のものとなったときに,広い心が生まれ,それは东说念主間関係を潤滑にするものとなる」という記述をしています。そのような観点から,「互相连结,寛容」を指導してほしいと記述しています。  48ページの「規則の尊重」の部分では,「法やきまりは自分たちを板滞するものとして自分勝手に反発したり,自分の権利は強く主張するものの,自分の果たさなければならない義務をなおざりにしたりする者も存在する中で,社会の法やきまりのもつ意義について考えることを通して,法やきまりが,個东说念主や集団が安全にかつ宽心して生存できるようにするためにあることを连结し,それを進んで守り,自他の権利を尊重するとともに義務を果たすという精神をしっかりと身に付けるように指導する必要がある。その際,法やきまりを守ることは,その自分勝手な反発等に対してそれらを許さないという酷好酷好をもつことと表裏の関係にある。」という記述をしています。前のページでは,自分も過ちを犯す可能性があるからこそ他者を許すということについて記述していますが,「規則の尊重」の部分では,あなた自己がルールを守りなさいということだけではなくて,ルールを守ることが自他の権利を守り,義務を果たし,冷静と安全が守られるという構造になっている場合には,はじめからそれを守らないという者に対してそれは許さないという態度をもつ必要があるという指導の在り方になっています。その意味においては,实质項目の間で,文言のみを見ると矛盾しているのではないかとも捉えられるかもしれませんが,この点をどのように題材にして指導していくのかが問われますし,そういった工夫を教科書会社に求めたいと考えています。  もう一つ例を挙げます。44ページを御覧ください。「友情,信頼」というところです。「協力し,助け合い,信頼感や友情を育んでいく」ということが書かれています。互いに信頼し,協力し,助け合う,连结をし合うということが大事であるということが記述されています。  51ページからの「自制,自制,社会正義」の部分は,今回の学習指導要領の中でも重視した項目です。ここでは,「日頃から自分自己の考えをしっかりもち,同調圧力に流されないで必要に応じ自分の相识を強くもったり,学校や関係機関に助けを求めたりすることに躊躇(ちゅうちょ)しないなど,周囲の雰囲気や东说念主間関係に流されない態度を育てるようにする」ということを記述しています。「友情,信頼」のところでは他东说念主を信頼しよう,连结し合って友情を育むようにとする一方で,こちらでは同調圧力に流されないということを記載しています。それぞれ说念徳的な価値としては正しいのですが,それがぶつかることが社会生存の中で起こり得るということを,一つの題材にしていただきながら,讲义の工夫や指導の工夫をしていただきたいと想っています。  实质項目の修正に伴う説明の追加については,一つ一つの説明は省かせていただきますが,例えば32ページの「個性の伸長」のところで,今回,低学年に,自分の特徴に気付くことを入れました。それに伴い,33ページに低学年の記述を追加しました。この解説を踏まえて,教科書会社にしっかりと讲义について御検討いただきまして,讲义の質を高めていくとともに,この専門家会議におきまして,说念徳耕种の指導递次改善の具体例や評価の在り方について御議論いただき,その結果を,解説の特に評価の部分に追記させていただきたいと想っています。また,本専門家会議の御議論の結果を踏まえて,教師用指導資料の作成や指導要録の改善を行いたいと考えており,その結果,質の高い教科書,指導递次の改善,評価の改善と,これらが三位一体となって说念徳耕种の質的な転換を支えるという構造にしていきたいと考えています。 【天笠座長】  ありがとうございました。御質問・御意見は後でまとめてお願いしたいと想います。  次に,说念徳耕种の指導と評価につきまして,お二东说念主の方から発表をお願いしたいと想います。岐阜大学の柳沼准耕种及び国立耕种策略盘问所の西野総括盘问官に発表をお願いしたいと想います。  まずは柳沼准耕种にお願いします。 【柳沼准耕种】  岐阜大学の柳沼です。本日は「問題解決的な学習を導入した说念徳授業」と題しまして,こちらのパワーポイントで発表させていただきます。よろしくお願いいたします。  御承知の通り,说念徳の「特別の教科」化の流れは,耕种再生実行会議の提言から始まり,说念徳耕种の充実に関する懇談会の報告や中央耕种審議会の答申を経て,学習指導要領の改訂に至りました。その端緒となったのが,耕种再生実行会議の提言にある「いじめの問題等への対応」であり,「新たな枠組みによる说念徳の教科化」でした。それ之外にも基本的な生存習慣や規範意識の朝上,あるいは情報モラルや人命倫理といった本日的課題にも対応するべく広い意味での说念徳耕种の抜本的改善が求められてきました。  こうした子供を取り巻く具体的な諸問題や本日的課題に対して,従来の说念徳授業が十分に対応できていないということが挑剔されてきました。先ほどの課長の話にもありましたように,従来の说念徳授業は,「読み物の登場东说念主物の心思连结に偏った神情的な指導が多い」とか,「分かりきったことを言わせたり書かせたりすることが多い」,あるいは「说念徳的価値の押し付けになっているのではないか」という挑剔があります。  また,毎週きちんと说念徳授業はやっているけれども,「なかなか実効性が上がらない」「说念徳的な行為や習慣につながらない」「いじめのような深切な現実問題に対応できない」,あるいは「発達の段階にうまく対応していない」ということも挑剔されています。  従来の说念徳授業の目標は,「说念徳的実践力の育成」でありながらも,说念徳性の心意的側面の育成ばかり強調されてきたという面があります。说念徳を教科化することによって,说念徳性の認知的,行動的側面の育成も含めたバランスのよい総合的な指導递次を確立することが大事だと想います。  また,従来は,说念徳耕种合座では说念徳性を育成し,说念徳授業では说念徳的実践力を育成するという独到の区別があり,機能不全に陥ることがありました。そこで,新設された说念徳科では,说念徳耕种でも说念徳授業でも同様に「说念徳性の育成」を目指すという統一目標が昭示されましたので,よりよく機能するようになると想われます。  この说念徳性の观念に関して,中教審では「様々な課題や問題を解決し,よりよく生きていくための資質・才调」であると定義し,学習指導要領にも「东说念主生で出会う様々な問題を解決して,よりよく生きていくための基盤となるもの」と示されています。こういった「说念徳的な問題を解決する資質・才调としての说念徳性」は,固然「生きる力」とも密接に関連してきます。これまで说念徳耕种は,「生きる力」の構成因素の中でも「豊かな东说念主間性」だけを重視してきましたが,これからは問題を解決する資質・才调としての「確かな学力」や「たくましく生きるための健やかな体」の基盤とも見なされるため,「生きる力」合座を育むために贫苦であると学習指導要領の総則で明記されました。  こうした新しい说念徳性の观念は,固然ながらOECDのいう「キーコンピテンシー」の观念や国立耕种策略盘问所のいう「21世紀型才调」の观念にも関連してきます。単に说念徳的諸価値を頭で连结するだけでなくて,それを活用し,実践の場で主体的に適切な判断をし実践できる資質・才调としての说念徳性が,求められるということです。  说念徳も教科となるからには,まず「何ができるようになるのか」という「資質・才调としての说念徳性」が求められます。従来のように概述的な「内面的資質」を養うのではなくて,実践の場で主体的に適切に判断し実践できる「資質・才调」を養うことが大事になります。次に,「何を学ぶのか」という实质項目の变嫌が大事になります。単に曖昧な标的目標を示すだけではなくて,より具体的な行動目標を示すことも贫苦になります。第3に,こうした说念徳を「どのように学ぶのか」という指導递次が大事になります。それがまさに本日のテーマである「考え議論する说念徳」,「問題解決型の说念徳授業」であると想います。  新しい学習指導要領では「说念徳科の目標」の中に指導实质,指導递次,そして資質・才调が順にはっきりと打ち出されました。この中で資質・才调に当たる部分として,「说念徳的判断力」が筆頭に来て,次に「心思,実践意欲と態度」の順になりました。従来の指導递次は,说念徳性の心意的側面を重視して「登場东说念主物はどんな気持ちか」「どうしてそうしたか」と尋ねて,说念徳的心思の育成することを重視してきました。これからの指導递次は,说念徳性の認知的側面も充実させるために,「登場东说念主物は何をなすべきか」「自分なら何をすべきか」と尋ねて,说念徳的判断力の育成も重視する必要があります。また,说念徳性の行動的側面を充実させるために,「登場东说念主物はどのように行動すべきなのだろうか」「自分ならどう行動するだろうか」と尋ねて,说念徳的実践力の育成も大事にすることが求められます。  従来,登場东说念主物の心思や行動の意味を连结するだけでは,どうしても说念徳的行為や習慣にはつながっていきませんでした。しかし,問題解決的な学習を取り入れて,登場东说念主物の行動方針や具体的な行動の仕方まで考え判断することができれば,実際の说念徳的行為や習慣にもつながっていきます。ここに说念徳耕种と说念徳授業の目標を統一して,「说念徳性の育成」を目指す意味があります。また,「生きて働く说念徳性」を養うことにより現実的に「东说念主格の完成」に近づくことにもなります。  こうした说念徳的な問題解決のプロセスは,子供の平日生存では当然に行われています。子供たちは日々,様々な問題に直面し,自ら課題を設定し,いろいろな解決策を考え判断し議論し,それを実行した上で,よい習慣を造成し,说念徳的な东说念主格を発達させていきます。そうした問題解決のプロセスをよりよく行って说念徳的に成長するために,说念徳授業では子供が様々な说念徳的問題に主体的に取り組み,その中に含まれる说念徳的諸価値を连结しながら,物事を多面的・多角的に考え,みんなで議論し合う学習を取り入れる必要があります。  様々な問題状況の中には,複数の対立する価値観が含まれているものや,答えが一つではないものもあります。そうした複数の価値实质や解決策を比較検討しながら皆で話し合うことが大事になってきます。  こうした問題解決的な学習を取り入れた说念徳授業なら,これまでタブー視されてきた「说念徳的行為や習慣に関する指導」も可能になります。こうした说念徳授業では,子供たちが说念徳的問題に主体的に取り組み,自ら課題を設定し,協働的かつ能動的に想考,判断,表現することになります。これはまさに平成30年の学習指導要領の改訂を先導する,アクティブ・ラーニング型の说念徳授業になると想われます。  従来の说念徳授業は,どうしても「主东说念主公はどんな気持ちだったか」「なぜそうしたのか」にこだわってきました。それに対して,現実の生存においては「こうしてはいけない」「ああしなさい」というような指点・敕令調の生徒指導が行われています。ここのギャップが大き過ぎるのです。問題解決型の说念徳授業は,その中間に位置しており,「主东说念主公はどうしたらよいのだろうか」,「自分ならどうすべきだろうか」「东说念主間としてどう生きるべきか」を,教師と子供たちが一緒に考えていくことになります。  子供たちにとっては,現実離れした架空の物語で登場东说念主物の気持ちを推測するだけでは面白くありません。しかし,実際に子供たちが興味・関心をもつような切実な問題であれば,当然と主体的に取り組むようになり,登場东说念主物の立場から多様な解決策を次々に考え,みんなで活発に議論し合うようになります。 そうした中で,子供たちは傍観者や評論家の立場ではなく,問題に直面した当事人の立場から関与し,具体的な問題を解決する資質・才调を高めていくことができます。  そうした说念徳授業をするためには,子供たちの実態や说念徳性の発達状況を把捏しておく必要があります。そのために,预先指導や授業の導入段階では,子供たちの生存経験や说念徳に関する意識を確かめておくことが大事になります。展開の前段では,読むための資料ではなく,考え議論するための資料を教导することが大事になります。例えば,小学1年生の資料「スズメの赤ちゃん」では,従来の指導递次なら「家に持ち帰った私の気持ち」を場面ごとに考え続けることになります。それに対して,問題解決型だと「说念路にスズメの赤ちゃんが落ちていたらどうしよう」を考えます。  同じく小学1年生の資料「かぼちゃのつる」であれば,つるがどんどんスイカの畑や说念路に出ていって珍惜され,最後は車にひかれてしまいます。従来の指導递次だと,場面ごとに「かぼちゃのつる」の気持ちを聞いていって,「悪いことをしては駄目ですよ」という結論に至ります。それに対して,問題解決型だと「摆脱に伸び伸びと生存したい」気持ちも分かるが,「他东说念主の招引になること」や「自分にとって危険なこと」もしてはいけないことを確認し,「それならどうすればよいか」を考えることになります。そうした学習の過程で,子供たちは说念徳的な諸価値や旨趣・原則をきちんと连结した上で,平日生存でも汎用できるような说念徳的判断力や実践力を身に付けることができます。  このように说念徳科において問題解決的な学習を導入するのであれば,基本となる発問は,「何が問題になっているのか」「どうすれば解決するか」ということになります。問題の中には多様な说念徳的価値が含まれ,時に矛盾・対立する価値観が含まれていることさえあります。そうした中で「主东说念主公はどうしたらよいのだろう」「自分だったらどうするだろう」「东说念主間としてどうあるべきなのだろう」と悩み,考え,話し合うことが大事になります。  もっといろいろ事例を挙げてみます。例えば,小学校3・4年生で扱う「絵はがきと切手」という資料があります。転校していった仲よしの正子さんから,70円不及の絵はがきが届くのですが,主东说念主公のひろ子はそれを正子に教えるべきかどうか,迷ってしまうという实质です。資料を最後まで読めば,解決策が書いてあるのですが,この結論部分を子供たちにじっくり考えてもらいたいところです。お兄ちゃんは「きちんと教えてあげた方がいい」と言い,母親は「お礼だけにしておいた方がいい」と言ったとき,どうするべきだろうかということです。  中学1年生では,「裏庭での出来事」という資料があります。裏庭で三东说念主がこっそりサッカーをしていたところ,雄一が倉庫のガラスを一枚割ってしまう。彼が職員室に行った後,残った二东说念主でサッカーをしていたら,健二が隣のガラスも割ってしまう。そこに雄一とやって来た先生に,大輔が上手に言い訳をして,すべて雄一のせいにしてしまう。このような問題場面を規範意識や东说念主間関係を絡めて,「健二はどうしたらよいか」を考えていきます。  中学3年生では,「二通の手紙」という資料があります。これは,職員の元さんが動物園を閉めようとしているときに幼い姉弟がやってきて,「弟の誕诞辰だから入れてくれ」と言う。「本日だけ特別」ということで,元さんが入れてあげたところ,その姉弟が行方不解になって大変な騒ぎになる話です。母親からは感謝の手紙が来ますが,上级からは解任処分の晓谕がくるという話です。  このように,大东说念主でも葛藤するような資料を使って,どうすればよいかをみんなで考え議論していく。このような問題は,社会に出てからも固然ありますし,PISA型のテストや天下粹力試験のB問題にも共通するところがあります。二つ以上の対立する考え方を比較しながらも,よりよいものは何か,別の解決策はないかということを,みんなで論理的に考え議論していく。プロブレム・ベースド・ラーニングやプロジェクト学習にも共通しています。  こうした指導递次は,「私たちの说念徳」小学校中学年にも情報モラルの授業例としても載っています。例えば,業者の东说念主から家に電話がかかってきて,「友達の名前と電話番号を教えてくれないか」と言われます。「梗直」という好意思徳のもとでは,教えるべきなのですが,どうしたらよいかということで議論するのです。  また,いじめの問題に対応した说念徳授業でもよく活用されます。従来の说念徳授業だと,被害者の気持ちを考えて「かわいそう」と怜悯し,加害者の気持ちを考えて「ひどい」と非難して終わりがちです。それに対して,「私たちの说念徳」小学校高学年にはこんな事例が出ています。掃除の時間に当番のAがごみを捨てに行こうとしたら,Bが「君は行かなくてもいいよ」と言い,立場の弱いCに向かって「おまえが行ってこい」とごみ箱を押し付ける。「このときAやCはどうすればよいだろうか」というものです。それぞれの立場で問題が違っています。Aが単に傍観者の立場なら,同調圧力に屈して保身に走ることになります。Bは加害者の立場ですが,自分勝手で想いやりのないところがあります。Cは被害者の立場ですが,我方主張才调が足りないところがあります。こうしたそれぞれの立場や状況を踏まえて,「どうすればよいのだろうか」ということをみんなで考えていくのです。  ただし,こうした問題解決を単なる二項対立の図式にして,「あれかこれか」を選ばせるだけだと,モラルジレンマのような授業になってしまい,说念徳的価値観が交集して望ましくありません。問題解決型の说念徳授業は,二つ以上の解決策をいろいろ考え比較検討しながらも,最善の策や次善の策に絞っていき,ねらいとする说念徳的価値に迫っていくことになります。  こうした問題場面で解決策を吟味するための発問も大事になります。例えば,登場东说念主物の動機を考えるだけではなく,「そうしたらどうなるだろう」と結果や見通しを考えることもできます。また,過去の経験を振り返って「自分も似たようなことがなかっただろうか」,「この問題に活用できる知識や时间はないか」を考えてみることもできます。  いろいろな说念徳的旨趣・原則を活用することもできます。例えば,「自分がそうされてもよいだろうか」という可逆性の旨趣を考えたり,「いつどこで誰にでもそうするだろうか」という无数性の旨趣を考えたり,「それでみんな幸せになれるのだろうか」という互恵性の旨趣を考えたりもできます。こうして子供たちの問題解決が一面的な物の見方から,多面的・多角的な見方へと広がっていき,我方中心的な見方からより民众的な見方へと発展していくようになります。  先ほどの「絵はがきと切手」であれば,「転校生の正子ならどうして欲しいだろう」と立場を入れ替えてみたり,「正子が間違えた料金でみんなに絵はがきを配ってしまったらどうなるだろう」と結果を考えたり,「それで本当の友達と言えるだろうか」とテーマに即して問うてみるのです。  こうしたことを始めは子供が個別に考え,その後で皆で話し合うのが一般的です。例えば,ペア学習であれば,二东说念主一組で轮换して話し合うので全員进入しやすくなります。四东说念主一組のグループ学習なら,主体的に協働しながら問題解決するアクティブ・ラーニングになっていきます。そうしたグループ活動を踏まえて,最後に学級合座で話し合うと活発に意見が相易できます。  別のやり方として,展開前段の資料实质を基礎問題として結論を出した後に,応用問題をシミュレーションとして解いていく形势もあります。例えば,先ほどの「絵はがきと切手」について考えた後に,B君の代わりにA君が勝手に夏休みの宿題をしてあげているけど,「それは本当の想いやりなのだろうか」と考えてみる。あるいは,「裏庭での出来事」について考えた後に,「当番の掃除を立場の弱い者に押し付けて帰ろうとする友達に,どのように言えばよいか」を考える。あるいは,「二通の手紙」で問題解決した後に,NHKのEテレの「ココロ部!」で放送した「遅れてきた客」について考える。この「ココロ部!」は,私も指導・助言に入っており,問題解決型の说念徳授業で構成されています。遅れてきたおばあさんが特別な想い入れのある絵画を一目だけでも見たいと言ってきた場合,どう対応すればよいかを応用問題として考えていくのです。  さらに,授業の展開後段では,「说念徳的行為に関する体験的な学習」と結び付けることもできます。問題解決型の说念徳授業は,「問題解決的な学習」と「体験的な学習」をセットで活用する傾向があります。問題解決的な学習で考えた様々な解決策を動作化や役割演技を用いることで,座学から平直経験へつなげていくのです。一例として,「怠け忍者が遊ぼうと誘惑に来たら,どうやって撃退したらよいだろうか」とか,「おじいちゃんの大事な壺(つぼ)を割ってしまったコボちゃんのパパは,どうやって謝ればいいだろうか」とか,「ケンカした友達と仲直りするためにはどうすればよいだろうか」,「電車の中でマナーの悪いお客さんにどう珍惜すればよいか」などについて,子供たちが解決策をいろいろ考え,即興的に演技して比較検討してみるのです。ここでは,決まったせりふを言うのではなく,自分で考え判断した解決策を演じてみることが大事です。  板書に関しても,子供たちが自分の考えや判断を整理しやすいようにマトリックスを作ってまとめることもできます。様々な解決策の意义と結果を比較したり,メリットとデメリットを比較したりして考えを深めることができます。また,先东说念主や偉东说念主の資料なら,例えば「杉原千畝が6,000东说念主の命を救ったビザを発行した行為をどう想うか,自分だったらできるだろうか」を皆で考えてみることができます。あるいは,「田中正造は天皇に直訴すべきだったか,东说念主間としてどう生きるべきなのだろうか」を真剣に考えてみることもできます。このように偉东说念主や先东说念主の話をあがめ奉るだけでなく,自分たちの说念徳的問題として捉え直し,議論し合うことで考えが深まります。  終末では,一般的に,「本日の授業でどのようなことを学び,考えたか」を振り返ることになります。授業でねらいとした说念徳的諸価値をもう一度振り返ってみるのもよいですし,异日の自分の生存にどう生かしていくことができるかを考えることも特别義だと想います。  最後に,評価についても申し上げます。基本的には,说念徳科では数値などによる評価は行いませんが,記述式の評価は行うことになります。そこで,子供がいかに成長したかを受けとめて,奋力を認めたり,励ましたりする個东说念主内評価をいかに行うかがポイントになります。それは個々の说念徳授業を評価するのではなく,学期ごとのまとめのようなものを大くくりにして評価に反馈させ,指導要録に新設される说念徳用の記録欄に記載することになるかと想います。  従来の说念徳授業ですと,育成した说念徳的心思や態度を評価することになりがちなので,「子供の心」を評価するとなると,どうしても反発やアレルギー反応が多く出ます。しかし,問題解決型の说念徳授業であれば,教科の3観点のように子供が学習するプロセスを「想考・判断・表現」の観点で評価したり,授業に対する子供の我方評価を「関心・意欲・態度」の観点から評価したりしますので,特に支障はありません。  特に,問題解決的な学習の場合は,子供たちが資料に教导された問題状況をパフォーマンス課題として設定して,これまでの知識や経験を出し合って協働して探究するプロセスについてパフォーマンス評価することができます。子供たちは说念徳的問題についていろいろな考えや判断をして深めていきますので,その判断意义を整理してルーブリック評価していくこともできます。  評価をする場合は,できれば子供たち一东说念主一东说念主の考えの変容を後で確認するためにも,说念徳ノートやワークシートを有効活用したいところです。例えば,授業の導入では「何でも好き勝手にできることが幸せだ」と考えていた子供が,授業の終末では「ルールを守って自他に責任をもつことが大事だ」という認識に至ったところを認める。あるいは,いじめの問題場面で「見て見ぬふりをするしかない」と想っていた子供が,「被害者の気持ちを考えて声を掛け,何とか味方になりたい」と考えるようになったところを評価することができるのではないでしょうか。そのほかにも,因果関係を論理的に郑重しているところや,自分の経験や見聞と結び付けたところ,様々な说念徳的諸価値と結び付けて深い郑重をしているところ,异日の自分の実践や習慣に結び付けているところなどについて認め,励まし,勇気づけるようなコメントを付けて,子供たちにフィードバックしていくと,子供たちも说念徳授業にやる気を出すのではないかと想います。  さらに,说念徳耕种の評価を効果的に行うためには,说念徳科の授業だけでなく学校合座の说念徳耕种を「行動の記録」と関連づけることも贫苦になると想われます。「行動の記録」は,说念徳耕种合座の实质項目と関連しているわけですけれども,实质項目は20前後ありますし,そのキーワードだけでも40前後ありますので,それを一皆評価していくのは至難の業です。そこで,地域や学校ごとに中枢的価値,つまりコアバリューを10個ぐらい設定した上で,それを「行動の記録」として設定し,说念徳科の授業と結び付けた形で,日頃の说念徳的実践に対応させて評価していくと有効であろうと考えます。  说念徳授業と说念徳耕种合座を関連づけるために,当年から特別活動等の体験活動や学校行事などのエピソードを说念徳授業の導入や展開で活用するということは行われてきましたが,それだけでは全く不十分です。むしろ,说念徳授業の中で深めた说念徳的諸価値を,体験活動や学校行事において说念徳的実践をして,評価することが,今後は大事になると想います。例えば,授業で想いやりが大事だという自覚を深めた上で,今週は「想いやりウイーク」に設定しようということで1週間やってみて,振り返ってワークシートに記入していく。「私たちの说念徳」でも「一言がんばり日記」などいろいろな工夫が掲載されています。そのような说念徳的実践を振り返って,「よくできた」「満足できる」等と我方評価したり,まだ「奋力を要する」場合には,その意义や改善について考えたりすることもできます。  このように学校耕种合座で行っていく说念徳耕种を総合的に見て,说念徳授業とも関連づけながら「行動の記録」に反馈させていくことが大事になると想います。说念徳授業で「グループが協力し合う大切さ」について考え,それを集団宿泊活動で実践してみて,それを特別活動で振り返ってみることで,PDCAサイクルを回すこともできます。あるいは「公徳心」や「民众心」の大切さについて深く熟慮した後にボランティア活動などをして,「行動の記録」に反馈することもできると想います。  こういった说念徳的実践を振り返ってワークシートやノートに記しておき,その遵守をファイリングしてポートフォリオ評価に活用することも,子供たちの学習状況や発達段階を把捏するためには有効ではないかと想います。学期末に说念徳的実践をまとめた図表やポスターを作って,子供たちがグループで発表し合い,互相評価し合うこともできます。学期や学年の終わりに,「自分たちはこんなに頑張ってきたんだ」「ここが成長したな」ということを実感したり,「このあたりはまだ足りないかな」「今後の課題にしよう」「このあたりを次の学年では目標にしよう」と考えたりすることで,子供たちの说念徳性の系統的な成長につながり,异日の夢や但愿にも結びついていくのではないかと想います。こういったノートやワークシートを蓄積していき,学年や学期の最後に教師と子供たちが一緒になって話し合い,納得しながらポートフォリオ評価をしていくことが大事になるのではないかと想います。  こういった問題解決的な学習に関しては,子供たちの自主性や独創性を尊重しますので,教師のアドリブ力というものが额外に贫苦になってきます。子供たちの考えを共感的に连结し,尊重するというカウンセリングマインドや,子供と教師が一緒に授業で学び考え議論し,一緒に評価し合うという態度が必要になってくると想います。  従来のような「読む说念徳」から「考え,議論する说念徳」への質的転換ということで,鼎新期にはいろいろ課題も生じるかと想います。しかし,上述した問題解決型の说念徳授業に対応した教員養成や教員研修を拡充させていくことで十分克服していくことができると想います。各学校でも校長先生を中心に说念徳耕种推進教師が率先して,新しい指導递次を積極的に取り入れ,教師全員の連携・協力体制を再構築していくことが,今後额外に大切になってくると想います。  以上です。ありがとうございました。 【天笠座長】  ありがとうございました。  続きまして,西野総括盘问官よりお話しいただきたいと想います。よろしくお願いします。 【西野総括盘问官】  国立耕种策略盘问所の西野です。本日は貴重な機会を与えていただきまして,ありがとうございます。  私からは,说念徳科の目標に新しく加えられました,物事を多面的・多角的に考えるという学習活動に焦点を当てて,多面的・多角的に考え,議論する学習を说念徳の授業でどう実現していくかということについて,お話しさせていただきます。  学習指導要領の说念徳科の目標には,「物事を多面的・多角的に考え,我方の生き方について考えを深める活動を通して」とあります。これらの学習活動があえて目標の文言に挙げられているということは,それが単に目標へ到達するための様々な妙技の一つではなくて,この教科の学びにとって本質的な活動であるということを示していると想います。現在,中教審で進められている学習指導要領の改訂に向けた議論でもアクティブ・ラーニングが大きく防护されているように,学習活動は,学んだ实质を育てたい資質・才调へつなぐという贫苦な役割を担っています。資質・才调の育成では,何を学んだかということや,何ができるかということだけではなくて,どのように学ぶかという学習活動が额外に贫苦です。特に说念徳科では,話し合ったり書いたりして多面的・多角的に考えるという学習活動が,それ自体が目標を実現するプロセスとして,说念徳的な実践でもあります。说念徳的な実践である多面的・多角的想考をどう育むかということが,今後の授業改善の最も贫苦な視点であると想います。  では,どのように学ぶのかということを考えたとき,子供の発達という観点を重視する必要があるということは,学習指導要領にも書いてあります。こちらにお示ししたのは,当年,国立耕种盘问所で実施した調査から,说念徳の時間に関する子供の摆脱記述の抜粋です。この調査の実施は2001年と额外に古いのですが,说念徳の盘问校ではなく,一般の学校から抽出して調査をしました。そのようなデータはその後ほとんどないので,额外に貴重な声です。発達などという系統的なものでもありませんし,学年による成長はこういうものだと固定的に捉えようとしてこれを出しているわけでもありません。子供が授業に対してどのような意識をもっているかということに,明らかな違いを見ることができるということに着目していただきたいと想います。  例えば,小学校3年生だと,「楽しかった」や「面白かった」などの感覚的な感念が多くて,授業が子供の心思と結びついて記憶されているということが分かります。4年生になると,生存を振り返り,目標を記述する子供が额外に多くなってきます。これは子供自己に,授業を通して自分を振り返って考えるという反省的な想考力が,確かに育っているということを示していると想います。もちろん実際にはこの決意が実践にうまく結びつかないことの方が多く,先生方が学習しても全然身に付いていないと嘆く意义になっています。  高学年になると,こんなことをやりたいという意欲が大変高くなり,子供からあんな学習をしてみたい,こんな学習をしてみたいという声がたくさん出てきます。与えられた授業だけで満足しないで,自分自己でこういうことを学びたいというアクティブな意識が,高学年では额外に高まっていることが分かります。  中学校では,说念徳の時間に対する受けとめは额外に悪いのですけれども,说念徳の授業に関しては,議論に関する意見が额外に多く出ます。「話合いをやりたい」とか,「いろいろな意見が聞けてよかった」,「もっと議論してみたい」という声がたくさん上がっているのです。  それでは,大学生はどうか。大学生というのは直近の说念徳の授業を受けてきた子供たちですので,自分が受けた授業,友達が受けた说念徳授業の問題点をお互いに考えながら,その改善点を出しなさいということを授業で行っています。その授業の中で出された主な意見を挙げておきました。改善案も额外に頑張って考えてくれています。  特に目立つのは,「答えが決まっていた」という不満であり,それを問題視する声です。答えが決まっていてやる気が起きなかった,つまらなかった,あるいは発達の段階に合っていない,小学校から中学校までずっと同じような授業をやっていたということが额外に多くの子供たちやグループから出ています。こういう子供たちの声を総合してみますと,答えの分からない問題を友達と話し合って考えるような,柳沼准耕种がおっしゃったような問題解決的な学習を,まさに子供たちが求めているということが示されています。  では,どうして今までそういう学習が说念徳で実現してこなかったのでしょうか。そこには,子供や授業に対する見方が大きな影響を与えていると考えられます。こちらに挙げたのは,1966年,说念徳の時間における問題解決的な学習への批判が大きくなって,その声が额外に高まったときに行われた座談会での司会者のまとめです。この言葉の中には,说念徳の授業で子供の自主性を重視する立場と,子供に価値をしっかり身に付けさせなければならないと考える立場が対立していたことが示唆されています。その後の说念徳の授業というのは,この二つの立場のうち後者の方,価値をしっかり身に付ける立場の方にかじを切っていくのですけれども,このように子供の自主性と教師の指導性を対立的に考える学習観や子供観というのは,その後の盘问の中で大きく見直されてきているのです。それが耕种递次の質的転換ということです。  1960年代から1980年代の間に,耕种学でも,そして说念徳玄学や倫理学でも,大きなパラダイム転換が起こっています。その遵守を踏まえて,耕种递次の質的転換が求められるようになってきています。これは大きく言えば,問題解決的な学習の見直しと,コミュニケーションをどう捉えるかということに関わっています。子供の学びの本質というのは,様々な関わりの中で出会った問題に対処しようとする,そもそも問題解決的な学習であるということを踏まえると,授業でも子供が考えたくなるような切実な問いが贫苦であるということになります。そして問題解決的な学習は,解決と名付けられていますが,むしろ学習の中で新しい問いに出会って,次の探究につながるようなサイクル的なものであること,そして様々な異なる意見をもつ东说念主とのコミュニケーションには,それ自体に说念徳的な価値があって,そのコミュニケーションから新しい考えを見いだす可能性が生まれるということです。このような耕种递次の質的転換を踏まえて,说念徳の授業を設計していく必要があるということになります。  そうすると,様々な関わり合いの中で,問題解決的に学ぶというのが子供の学ぶ力ならば,それを引き出す授業づくりはどうすればよいかということになります。これは柳沼准耕种にも具体的にお話しいただいたので,私からは簡単に触れますが,生存の中で実は子供は様々な価値と出会っていて,いろいろな葛藤や問題状況にも出会っています。その体験を大事にして,それを说念徳的な問題として再構成してあげることが,授業では大切になります。再構成して,そこからいろいろな意見,多様な考えが出てくるような問いをつくることが,一番大事になります。その上で,違う意見と出会って自分の考えを見直す中で,価値への気付きとか,想考の深まりということが生まれてくるのです。说念徳的な実践としてのコミュニケーションには,そういう新しい価値に出会わせたり,新しい考え方に気付いたりする大きな力が秘められており,そのコミュニケーションを豊かに実践すること,つまり結論に到達することよりもコミュニケーションのプロセスを充実させることが,授業づくりで最も大事なことだと私は想います。  この授業づくりの核になるのは,いろいろな意見に出会うことです。頭の中で多面的・多角的に考えるのではなくて,実際に多面的・多角的な見方,つまり友達の違う意見に出会って考えることです。想いやりは大切だというような,一つの価値の大切さを確認する授業では,多面的・多角的に考えることはできません。価値に関わって多面的・多角的な見方に考えられる問いというのは,想いやりとは何だろう,想いやりとおせっかいはどう違うのだろうといった問いや,旨趣的な問いや根拠への問い,そしてどうすれば想いやりを示せるかという旨趣や原則を適用する際の問いです。  本日取り上げたいのはこのうちの適用に関する問い,つまりHowに関する問いです。実は说念徳の授業では,このHowに関する問いというのは,技術的な問題として余り歓迎されてきませんでした。しかし,大切な価値を実生存で実現するにはどうしたらいいかという,Howに関する問いは,価値と実践をつなぐ問いで,実践力につながるとても大切な問いなのです。このHowに関わって,いろいろな意見を引き出しながら多面的・多角的な想考を促した授業を,実践事例で確認したいと想います。  ここからはスライドの方を御覧ください。先ほど柳沼准耕种に「絵はがきと切手」のストーリーを御紹介いただきましたが,この「絵はがきと切手」の一般的な授業というのは,友達との友情には時には珍惜することも大事で,友達とは単に仲よくするだけではなくて,時には珍惜し合えることも大事だということに気付かせるという,新しい見方に気付く授業になっています。その見方に気付く際に,終末の段階で広子はどんな想いで返事を書いたでしょうと,広子の気持ちに共感させながら,友達には珍惜することも大事なんだなということについて考えさせる流れが,一般的な授業の在り方になっています。  しかし,ここに幾つか子供が考えるであろう意見が載っているのですが,その中の一つに,「正子は友達だから,私の気持ちを分かってくれる」という言葉があります。このような結論で終わって本当によいのでしょうか。先ほど小学校4年生の子供たちは,学習したことをやってみたいという意欲が额外に高まると挑剔しました。この学習でも子供の意欲が高まると予想されます。では,今後は自分も友達に悪いところがあったら珍惜しようとなって,どんどん珍惜するということが実生存で起こったら,学級はどうなるでしょうか。実際には子供にとって,友達に珍惜するということはとても難しいことなのです。それを连结した上で,では,どう伝えるのが大事なのか,どう伝えればよいのかを考えることが,実はとても大事なことです。この場面では,子供たちが実際に考えなければいけない実践的な問いというのは,伝えるということを決めたのはよいとして,どう伝えるかという問題なのです。  正子さんにどう伝えようかということを友達同士で考えていく中で,自分の発言はどう受けとめられるのか,正子さんが傷つかないようにするにはどうしたらよいのかを具体的に考えることを通して,想いやりや友情,互相连结について,より深く考えることができることになります。その中で,例えば手紙で書くと笔墨に残るから,電話で伝えた方がよいのではないかというようなアイデアも出てくるわけです。このように考えることで,より価値に対する考えが深まることがあり得るのです。  事例2と事例3は,文科省の盘问開発学校の実践です。両方とも耕种課程の盘问開発をしていますので,说念徳の時間を別の時間と統合して実践しています。それによって,どこでどう価値について学習するのかということを盘问していますので,说念徳授業の特質が見えやすい実践になっています。  事例2の授業では,けんかしてもなかなか謝ることができないという学級の子供たちの実態を踏まえて,教師は「ごめんなさい」「ありがとう」という言葉って必要なのかなと問い掛けています。子供はみんな必要だと答えます。でも,実際には謝れない事態があるということに教師は気付かせて,なぜすぐに謝れないのかということを問題にしています。子供たちは,最先はかっとなるから謝れないとか,怖いとか,いろいろな発言をします。そのような意見が出る中で,すぐに謝らないと謝りにくくなるという意見に教師は防护しました。そして,すぐに謝らないとますます謝りにくくなるのだったら,その場ですぐ謝る递次を考えて,実践してみようと,ロールプレイをしてみるのです。そのロールプレイが,こちらになります。                                 (ビデオ上映) 【西野総括盘问官】  この子供は,謝る前に「本当にごめんね」と,「本当に」と付けたらもっと気持ちが伝わるのではないかと,友達のロールプレイを見ながら自分のアイデアを出しています。謝るのが怖いと言っている子供に共感しながら,自分の気持ちをどう伝えたらよいかを考えているこの子供たちの学習は,単に「本当にごめんね」という型を一律的に学習するスキル学習ではなくて,子供に価値について,ロールプレイを通して深く考えさせる学習になっていることが分かります。  3番目の事例は,「マナーアップ大作戦」という大単元の中の1時間です。前時までの学習で子供たちは,電車内でのマナーアップに取り組んでいます。1日駅長をやろうというアイデアが出て额外に盛り上がっている中で,教師は1日駅長って意味があるのかという,一东说念主の子供の問いに防护させています。これは教師自己が,子供の活動の中から価値や見方について判断が分かれる状況をつくり出して,子供に考えさせたいという指導の意図を持って設計されており,教師の指導性が強く働いた授業です。実際に,このたった一つの異なる意見と出会うことで,子供たちの議論が活性化して,マナーアップにつなげるために自分たちにできることは何だろうという視点から,今までの活動の意義を振り返るとともに,新しい活動をどうしていけばよいかということに関する,価値や課題意識も引き出すことができています。  说念徳の時間では,総合的な学習の時間や特別活動などの補充や深化,統合していくという形で,このような実践を実現することができるはずです。  最後は,中学校の授業になりますが,このスライドは授業実践ビデオを使って,大学生に授業者としてこの授業をやって,板書するならどうしますかということで書いてもらった,仮想の板書です。授業そのものの合座をお見せすることはできませんので,この仮想の板書を御覧になって,授業がどんな問いで展開していくかということを確認してください。  教師は二つの異なる正義に対する見方を比べながら,どちらの正義が正しいのだろうかと問いかけています。すると,対立で終わらずに両方の見方を越える考え方,新しい正義をつくるといった言葉も子供たちから出てきます。ちなみに,この授業を見た学生たちは,最後にもう一趟,正義とは何かと聞き直したらよいのではないかという改善案を出してくれました。最先の見方から子供たちがどう変わったか,子供の変容を知ることができるので,最先の「正義って何だろう」という問いを,最後でもう一度問うてみるというのは,とても大事なことです。  最後に,その変容ということに関連して,授業の学びの評価についてお話ししたいと想います。教科としての授業に関する評価は,说念徳耕种合座の評価とは異なる仕組みが必要だと想います。特に個々の实质項目について評価するのではないということは,はっきり示す必要があります。ここではその中でも学習状況を評価するという視点に立って,学習活動を通した想考の成長を捉えるということを提案します。  想考というのは,それ自体が额外に豊かな広がりをもっているものですけれども,その中でも说念徳的な想考には幾つか特徴があります。例えば,他者の視点に立って考えるという視点获得ができているかどうかということや,行為の及ぼす結果や影響についてどれぐらい考えられるかということです。このように複数の観点で说念徳的想考の特徴を可視化することができます。こういう観点を教師自己がもつことで,子供の発言や考えのどこに防护すればよいかということが分かってきますし,そういうエピソードを蓄積していく中で,子供の成長も見えるようになってきます。  教科としての評価が始まったばかりであるということを考えると,今はいろいろな授業盘问を行うことで,複数の目,つまりたくさんの教師の目で,この子供の発言はどんな考えから出てきたものだろうということを評価し合うような,校内研修が欠かせないと想います。  また,話合いの意義を子供自己が振り返ることができるようになるためにも,子供に話合いを評価させるということも大事な視点です。说念徳はほかの教科以上に,答えが一つではない問題を考える時間です。現実の说念徳的問題では必ず答えを出していかなければならないですが,说念徳の授業はその訓練の場であり,答えを考え続ける力を育てる場です。そういう点では,話合いの結論ではなくてプロセスに防护して,ある場合には不一致に終わることがあっても,その不一致に終わる授業から何を学んだかということを子供が実感できるように,子供自己の話合いを評価する芽を育てることが,多様な意見を出し合って考える授業をつくっていく上でも,生きてくるものになるのではないかと期待しています。  以上です。 【天笠座長】  お二东说念主の発表者の方,ありがとうございました。  質問につきましては,もう一つ御説明を頂きまして,その後にお願いしたいと想います。  说念徳耕种の評価に関わる現状につきまして,事務局から説明をお願いします。 【合田耕种課程課長】  資料3から資料8について,説明させていただきます。  前回,说念徳耕种の評価については,解説などにしっかり書き込まれており,それをしっかりやっていくことが大事ではないかという御挑剔も頂きました。  資料3を御覧ください。児童生徒の说念徳性の評価につきましては,学習指導要領の現在の記載を踏まえて,说念徳の解説において,観察や会話による递次など具体的な递次を示しながら,評価の递次と,評価の創意工夫と寄望点として,共感的连结を基盤とすることや,児童生徒のよさや個性を積極的に受けとめ,多面的で幅広い視点に立った評価を行うこと,多様な递次を生かしながら評価すること,継続的に観察することなど長期的な視点に立った評価を心掛ける,ということが記載されています。なお,紹介は省かせていただきますが,資料4は昭和33年以降の小学校の解説における評価についての記述の変遷,資料5は同じく昭和33年以降の中学校の解説における評価についての記述の変遷ですので,併せて御覧いただければと想います。  資料3の2ページに記載している通り,说念徳の時間の評価の在り方については,具体的に解説等で示しており,说念徳耕种及び说念徳の時間の評価は,子供たちの心の動きの変化や変容を把捏し,教師が指導の改善に生かすため,観察や会話,作文やノートなどの記述,質問紙,面接などを行って資料を収集し,说念徳性を连结し評価を行うということになっています。  その結果,说念徳耕种の評価は,指導要録における,「行動の記録」の評価,これは十分満足できる状態にあると判断された場合に丸印を記入するというものですが,その基礎になっていると言うことができると想います。  说念徳の評価に関わる指導要録上の「行動の記録」に関しては,各教科や说念徳,その他学校生存にわたって認められる児童生徒の行動について,说念徳の目標や实质,实质の取扱いで重心化を図ることとしている事項等を踏まえて示している別紙5を参考にして項目を適切に設定することとしています。各学校における評価に当たっては,各項目の趣旨に照らして,十分満足できる状況にあると判断される場合に丸印を記入することとしており,例えば小学校では基本的な生存習慣,健康・膂力の朝上,民众心・公徳心といったものについて,十分に満足できる状態にある場合に丸を付けることとして示しています。資料6は指導要録における「行動の記録」の変遷ということで,昭和33年以降の指導要録において,「行動の記録」がどのような観点で,どのような形で評価されていたかということをまとめたものです。併せて御覧いただければと想います。  なお,資料3にあるように,評価につきましては,質問紙による把捏をしている例があります。「いじめはどんな意义があってもいけないことだと想う」という認識を把捏する,あるいは「东说念主の気持ちが分かる东说念主間になりたいと想う」ということを把捏するといった評価を行っている例があります。  それから,記述による評価の例として,これは特例校等で行われている事例ではありませんが,毎回の振り返りなどを蓄積した上で,示知表の中に,例えば「东说念主間の心の機微が少しずつですが,连结できるようになったのではないでしょうか」といったような記述をし,保護者や本东说念主に返しているという例もあります。  資料7では,論点メモとして,論点の案を整理させていただいています。  说念徳の「特別の教科」化の筹算は,说念徳耕种の実質化と说念徳耕种の質的転換であり,そのためには問題解決的な学習の導入などが不成欠で,そのための必要な具体的な手だては何か,讲义,教員研修,効果的な取組の共有なども含めて,御議論をお願いしたいと考えています。また,問題解決型の学習の重視など質の転換を図りながら,ここでお示しさせていただいているような具体的な観点に寄望しつつ,说念徳科の評価の在り方を検討するに当たり,具体的にどのような工夫や改善を重視すべきかということについて,御議論をお願いしたいと想います。  なお,資料8について,先ほど柳沼准耕种や西野総括盘问官からもお話がございましたが,说念徳的な心思,说念徳的な判断力,说念徳的実践意欲と態度というものと,それを互相補完するような形で,说念徳的な行為と说念徳的な習慣というものがあるわけですが,これは目に見えるものと見えないものがあります。評価基準に基づく把捏というものが現行の「行動の記録」への記入ということであるとするならば,今回学習指導要領上も数値による評価は行わないということになっており,その上で記述による評価を行うという構造になっておりますので,このような位置関係にあるのではないかということで,参考までにつくらせていただきました。  この点につきましては,先ほど柳沼准耕种と西野総括盘问官のお話にもありましたように,総合的な学習の時間を始め,各教科等で行われている問題解決的な学習,あるいは体験的な学習というものが,評価理論的には基準に基づく把捏ですとか,数値による評価というものも可能で,実際に指導要録上は,総合的な学習の時間の記録,特別活動の記録などという形で,記述で評価をされているという考えから,合座の位置関係としてつくらせていただいたものです。  特に資料7に基づきまして,黑白御議論,御挑剔を頂きたいと想います。 【天笠座長】  ありがとうございました。  柳沼准耕种,西野総括盘问官のお二东说念主の話などを踏まえ,委員の皆様より御質問あるいは御意見などを頂ければと想います。よろしくお願いいたします。  なお,発言がある場合には,名札を立てていただければ,こちらの方で指名させていただきますので,発言をその順でお願いしたいと想います。それではいかがでしょうか。 【島委員】  幅広く聞かせていただき,参考になりました。  私が少し疑問に想って,押さえておかなければいけないと想うことをお話ししたいと想います。今回の教科化に当たっての課題なのですが,登場东说念主物の心思连结に偏った指導が行われているということと,说念徳的な心思に偏った指導が行われているということとは,別のことではないかと想います。今回,課題となっているのは,いわゆる読み物資料の中の登場东说念主物の想いばかりを,心思読解として扱ってしまい,例えば,「主东说念主公はとても悩んだんだね。でもその中で梗直に言ったんだね。さて,君たちは梗直に言ったことがありますか。」と,突如,梗直にできているかどうかといった話になってしまって,梗直とは一体何なのかという,いわゆる说念徳的価値について考える授業ができていなかったということへの,反省や課題だと私は捉えています。  つまり,足りなかったのは,ねらいとする说念徳的価値についての授業になっていなかったことだということを,しっかりと捉えないといけないと想うのです。そう考えたときに,問題解決的な学習における問題は一体何なのかというと,それは说念徳的な行為に関する問題というよりも,说念徳的な価値に関わる問題であると想うのです。   だから,例えば「絵はがきと切手」の場合も,友達が間違ったときにどう言えばトラブルにならないのかという問題ではなくて,「仲よし」と「親友」はどこが違うのかということ,つまり,友情についての問題であると想うのです。友達関係でトラブルがあって,どのようにすれば自分も傷つかず,相手も傷つかないようにしていくことができるかということを考える場合も,単に,自分にとって友達がいなくなったら困るからという意义で,一世懸命相手のことを考えてうまく振る舞うという,処世術的な振る舞いであったとしたら,果たしてそれで说念徳的な深まりと言えるかどうかということについては,考える必要があると想います。   もちろん,どのように言えばうまく相手とトラブルにならないかということも,大事なことです。しかし,これは,学級活動においてきちんとやっていくことになっています。それももちろん,子供たちが自分たちで知恵を出し合い,こうすればどうだろうか,ああすればどうだろうかと考え,自分なりの結論を出す。その学習では,说念徳の時間における,友情や仲よしと親友の違いについての学習が大きな基盤になっています。   このような点について考えることが必要ではないかと想います。 【橋本委員】  ありがとうございました。私も,島委員と同じことを考えておりました。話が重なるところは割愛しますが,アクティブ・ラーニングの标的性については,いろいろなものを配景にして连结しております。アクティブ・ラーニングも,各教科で行われている問題解決的な学習も,教科の本質・特質を踏まえた上で有効な指導递次として,取り入れていくことが基本だと想います。说念徳における問題解決的な学習も,说念徳の本質・特質に照らし合わせて有効な指導递次として取り入れていくということには賛成です。いろいろな指導递次があって,切磋斟酌(せっさたくま)して,子供のためによい授業をつくっていこうということは基本的に同じ考え方です。  ただ,本日のヒアリングを聞かせていただいて,その实质だと本質や特質が変わってくるということが,一番の質問点です。合田課長からも,授業の質の転換を図りたいという話があり,質の転換を図る必要は私もすごくあると想うので,「やった!」というのが今の感念です。学校現場における说念徳授業の質は,課題がたくさんあって,本質や特質を踏まえた授業が各学校で行われているかというと,そうではないのが現状です。そのため,質を抜本的に鼎新していこうということには,やっていこうという気持ちが満々なのですが,本日のお話を伺うと,本質や特質まで変えようとしているのかなと感じます。現場は额外に交集するのではないかと不安になりました。何が問題なのか,何を変えなければいけないのかということは,固然評価につながってきます。何を指導するのかということは評価に直結してきますので,本質や特質に問題があるからそれを変えようとしているのか,今の授業の現状に問題があるからその質を高めるために問題解決的な学習を取り入れていこうという标的なのかというところは,しっかり押さえて議論をする必要があると想います。  西野総括盘问官のお話の中で,結論ありきではなく,コミュニケーションのプロセスの中で様々な考え方や想いに出会わせながら,说念徳性を培っていこうという点については,今までの本質と変わらない部分だと想い,そこは宽心して聞けたのですが,その部分はやはり確認する必要があると想いました。 【古屋委員】  これからの说念徳指導の新たな視点をお示しいただきまして,大変参考になりました。ありがとうございました。私も学ぶべき点が多かったと想います。  西野総括盘问官から,额外に貴重な資料を御教导いただきまして,特に子供の発達に即した指導の在り方については,極めて贫苦だと想っています。それを受けて,柳沼准耕种にもお伺いしたいのですが,問題解決的な学習の指導をこれから進めていく中で,やはり子供たちの発達の段階に即した指導ということも極めて贫苦だと想います。その際には,どういう递次が有効なのか。例えば,小学校1年生におけるこれまでの指導の中では,物語の登場东说念主物に共感をさせながら,なりきって考えさせたち,動作化をさせたり,役割演技をさせたりして,じっくりと浸らせながらその心思について考えさせる。それを通して说念徳的価値についての连结を深めて,さらには自分自己を見つめるような指導をしてきたと想います。それをあえて問題を教导するような指導递次にするのは,発達の段階からすると,少し厳しく,難しいのかなと考えざるを得ないと想います。やはり発達の段階に即して様々な指導递次を取り入れていく,そのことによって多様で効果的な指導が進められるのではないかと想いますので,その点についてお伺いしたいと想いました。 【佐藤委員】  二つの質問と,二つの意見を申し上げたいと想います。まず,問題解決的な学習についての質問です。柳沼准耕种のお話にあった「問題」解決的な学習については,多分,「問題」的場面に遭受するということが一番贫苦な点だと想います。そうでなければ「課題」解決学習になるだろうと想います。そういう点では,柳沼准耕种のスライドにありました田中正造を例にした,総合単元的な说念徳学習というものについて,もう少し後で補足を頂きたいと想います。  二つ目は,西野総括盘问官のお話で,子供の学びを評価するということについて,幾つかの観点という言葉がありました。その観点について補足の説明をしていただければと想います。  次に,私の意見ですが,一つはポートフォリオについてです。ポートフォリオについては,総合的な学習の時間の解説書の中にも記載されていますし,学習指導要録の改正示知の中にも,脚注の中でそのような言葉が出てきます。けれども,ポートフォリオは子供にやらせるだけではいけなくて,スライドではカンファレンスと書いてありますけれども,子供と先生がカンファレンスをしながら子供を励ますというか,アプリシエーションするということが,エバリュエーションやアセスメントを越える域に達して,励ますということにつながってくるのだろうと想います。そういうことが果たして現在の多忙な教師に可能なのかどうか,アイデアをお持ちなのか,今後考えていきたいということが一つ目の意見です。  二つ目は,教員研修の問題にも関わってくると想いますけれども,一定のスタンダードがなければ,先生によってばらつきが出てくると想います。その点について,もし,モデレーションなど何かアイデアがあればお願いしたいと想います。 【柳沼准耕种】  いろいろ御質問いただき,ありがとうございました。順番にお答えしていきたいと想います。  島委員からの御質問で,登場东说念主物の心思を连结するだけの授業は改善すべきだが,说念徳的心思を育てる授業はよいのではないかという御挑剔がありました。また,说念徳的価値を考える说念徳授業はこれからも大事にするべきではないかという御挑剔もございました。問題解決型の说念徳授業でも,様々な当事人の心思を十分连结しながら問題解決に取り組みますので,固然ながら说念徳的心思を育てることができます。また,問題解決型の说念徳授業でも,ねらいとする说念徳的価値について熟慮していきます。例えば,「仲良しと親友はどこが違うか」とか,「好き勝手な摆脱と本当の摆脱はどこが違うか」などという類似の说念徳的価値を比べて,その違いを连结できるようにする展開もあります。しかし,従来の说念徳授業では,そうした说念徳的心思を育成したり说念徳的価値を自覚したりしたはずなのに,実生存で说念徳的実践や習慣につなげることができなかったため,その実効性のなさが大きな問題になってきたのだと想います。  先ほどの「絵はがきと切手」もそうなのですが,単に「仲良しと親友の違い」で悩んでいるのではなく,「相手を傷つけたくないので教えない」という考えと「正しいことは教えてあげた方がよい」という考えで葛藤して悩んでいると見ることもできます。そうした多様な価値観が対立したり絡み合ったりして「答えが一つではない問題」「答えがすぐに出ない問題」もあるわけです。そうした問題に向き合い,「どうしたら相手を傷つけずに上手に伝えられるか」を皆で考え合うような問題解決的な学習が说念徳科では贫苦になるのではないかと想います。  说念徳科の授業では「说念徳的諸価値の连结」が大事ですが,それだけでは说念徳性は発達しません。说念徳的問題は,固然ながら複数の说念徳的諸価値が絡み合って葛藤状況を呈していますので,それらを整理・分類しながら「どうすればよいか」を考え判断し議論するプロセスが大事なのです。従来の说念徳授業のように,単一の说念徳的価値を追求するだけでは,「生きて働く说念徳性」を育成することはできません。単に「仲良しと親友なら,親友の方がいい」「摆脱と本当の摆脱なら,本当の摆脱がいい」「強い心と弱い心なら,強い心がいい」という分かりきった話なら,単純すぎて誰も悩みません。  先ほどの「絵はがきと切手」で申し上げると,「広子の立場だったらどうしたらよいだろう」と尋ねると,大勢の子供は「言いたくない」と答えます。「それでは,正子の立場だったらどうしてほしいか」と尋ねると,逆に大勢の子供が「ちゃんと言ってほしい」と言うのです。「正子が間違った絵はがきを皆にだしたら大変だ」と結果に関連づけたり,「本当の友達なら伝えてほしい」と说念徳的価値に関連づけたりして考えを深めてきます。このあたりで子供たちの認識が変容する過程を重視するのです。そのように立場や見方が変わると,子供たちも認識や行動方針も変わり,「それでは,相手を傷つけずに上手に伝えるためにはどうすればよいか」ということになり,ワークシートにせりふを書いたり,それを役割演技したりします。  このように「说念徳的問題を解決する資質・才调としての说念徳性」を育成するためには,単純な说念徳的価値を连结させるだけではなく,現実レベルでの具体的な対応策を考えさせる必要があります。そうした問題解決才调を子供が身に付けていくと,说念徳的実践や習慣にもつながってくからです。  従来は「内面的資質としての说念徳的実践力」を育成すればよかったので,说念徳的心思だけ養い,一つの说念徳的価値だけ深めればよかったのですが,今後は,「说念徳的問題を解決する資質・才调としての说念徳性」を育成するのですから,複数の说念徳的諸価値を比較検討しながら多面的・多角的に考え,判断し,実践する力を養うべきだと想います。说念徳授業の実効性を高めるためには,やはり現実に対応できる問題解決的な学習が必要不成欠だと想います。  橋本委員からの御挑剔で,「说念徳の本質や特質」も変化するのだろうかということがありました。私の考えでは,「说念徳授業の本質や特質」とは,学校の耕种活動合座で行う说念徳耕种の要となる役割を果たすことであり,「生きて働く说念徳性」を育成することです。従来は,この「说念徳の本質や特質」という用語で指導递次まで板滞していたところがありました。つまり,従来の说念徳授業では「登場东说念主物はどんな気持ちだったか」「どうしてそう想ったか」と尋ねる発問スタイルまで本質であると見なして,国語科の物語文を読解するような指導递次に板滞されてきました。こうした従来のやり方だと,登場东说念主物の说念徳的価値観に子供の考えを合わせなければならなくなり,说念徳的価値の押し付けになりかねません。大抵の子供たちは,資料を一度読めば,作家が資料に込めた说念徳的価値や教師のねらいとする说念徳的価値などに簡単に気づきます。そうした分かりきったことを答えさせるための発問が多いので,说念徳は退屈で面白くない授業になってしまうのです。  問題解決型の说念徳授業では,そうした说念徳的価値の押し付けを止めて,子供たちが自ら問題に取り組み,主体的に考え判断していくプロセスを大事にするのです。例えば,先ほどの「二通の手紙」では,元さんの気持ちを尋ねて「就業規則を破ってはいけない」という常識的な答えを再確認するだけの授業だと,生徒たちは皆げんなりして,すごく嫌な顔をします。しかし,「元さんはどうしたらよいだろうか」「自分だったらどうするだろう」と尋ねると,みんな顔を上げ,颜料が生き生きしてくるのです。「え,そんなこと考えていいの」と,生徒も一世懸命考え始めるからです。「想いやりも大事にしたいが就業規則も贫苦である」ということや,「入園させた後どうなるか」「上级はどう対応するか」等も含めて,「どうしたらよいのだろうか」とグループで真剣にアイデアを出し合うのです。「こういうことは平日生存にもあるよね」と自分たちの経験にも重ね合わせながら,活発に考え議論し続けます。そういう意味での指導递次の質的転換というのは,今後,アクティブ・ラーニング型の说念徳授業を提高させていくためにも,额外に大事になってくるのではないかと想います。  古屋委員から,子供の発達状況と問題解決的な学習の関連についての御質問がありました。従来の说念徳授業に慣れてしまうと,「問題解決学習は小学1年生では難しくてできないだろう」と言われることがあります。しかし,簡単にできるのです。例えば,先ほど教导した「かぼちゃのつる」や「すずめの赤ちゃん」は,小学1年生用の資料です。稚子園の子供たちだって「登場东说念主物はどうしたらいいかな」と尋ねると,みんな活発に話し合っていろいろな解決策を考え話し合います。それなのに,「小学校の低学年では問題解決の話合いができない」と想うのは,従来の指導递次に慣れきった教師側の想い込みであって,実際にやってみればできることは明らかです。もっと子供のもっている才调を信じて尊重する必要があると想います。  従来の说念徳授業では,小学校低学年だと,学芸会のように既に決まった動作化や役割演技をやらせるだけでした。だから,稚子なイメージがあり,小学校高学年以上では動作化や役割演技などやらなくなります。しかし,問題解決的な学習であれば,自分たちで考えた解決策を即興的に役割演技や動作化をするため,小学校低学年から中学生まで多様にできます。例えば「友達から悪口を言われた場合どうするか」という問題で,「無視する」「悪口を言い返す」「そんなことを言わないでと伝える」などいろいろな意見が出て,どれがよいかを役割演技しながら考え判断し話し合えます。  このように問題解決的な学習は,小学校低学年でも,中学年,高学年,中学生の说念徳性の発達にも適応するのです。先進諸异邦でも小学校低学年から問題解決学習を说念徳授業に取り入れるのは常識です。子供たちの说念徳性の発達を促すために最もよい递次は,子供たち自己が说念徳的問題に取り組み,自ら考え判断し話し合うことだからです。ピアジェやコールバーグを始め,国表里の说念徳性発達心理学の盘问者は皆,そのような子供がどう判断するかに防护しています。登場东说念主物の心思を読みとっても判断力や実践力は身に付きませんが,子供が多面的・多角的に問題解決に取り組めば,判断力や実践力を身に付けることができるのです。一つの说念徳的価値の視点から登場东说念主物の心思を読み取る递次から,多面的・多角的な視点から登場东说念主物と共に問題解決をする递次へと指導递次を質的に切り替えることが大事です。そうした学習を通して,一面的に我方中心的な見方しかできなかったものが,多面的に民众的な見方もできるようになって,生きて働く说念徳性も身に付くようになるのです。  佐藤委員からの御質問で,問題解決的な学習が総合単元的な学習にもつながっていくのではないかということがありました。田中正造や杉原千畝など歴史上の偉东说念主や先东说念主を取り上げますと,かなり広がりや深みが生じてきます。例えば,田中正造については,小学5年生の社会科の授業と関連づけて,まず四大公害病と関連づけて学び,次にNHKドラマ「足尾から来た女」の関連場面を視聴し,田中正造はどのような东说念主生を送ったのかを全般的に示しておきます。杉原千畝も当時の世界情勢や日本の立場を示しておき,说念徳的問題に関する判断の場面だけではなくて,歴史的・社会的な配景を学習しておきます。そうした预先指導の下で说念徳授業を深く行うと,子供たちは「すごい日本东说念主がいるんだ」「自分たちもそうなりたい」と実感して魂を震わせるのです。そうすると,授業後も子供たちは自主的に学習をし続け,自ら図書館に行ったりインターネットで検索したりして,偉东说念主や先东说念主の东说念主生を調べ出して,議論がどんどん活性化し止まらなくなります。1回の说念徳授業だけで終わらなくなり,発展的で探究的な面白い自主学習がどんどん展開していきます。  ポートフォリオ評価に関しては,いろいろなやり方があると想いますが,基本的には学期や学年の最後の说念徳授業あたりで,カンファレンスを行います。まず,子供一东说念主一东说念主が自分のポートフォリオを振り返って,我方評価をやっていきます。その後で,4东说念主グループでお互いに発表し合い,「自分はこんなふうに頑張ってきたけれども,どう想う」とお互いに聞き合ったり学び合ったりします。「ここは頑張ったね。これからはこんなふうにやっていけるといいね」というように,子供同士で認め励ますような互相評価をし,グループごとに学級合座の前で発表もします。そうした個別の振り返りシートに先生から個別にコメントをもらうことで,子供自己が次の目標や課題につなげていくこともできるし,教師による大くくりな評価として活用することもできます。  最後に,说念徳科における問題解決的な学習は,まだ共通認識が足りないせいか,「どうやればよいか分からない」という声も聞きます。その中には,従来のように心思连结に偏った発問をして,「登場东说念主物はどんな気持ちだったか」「どうしてそうしたのか」というマンネリ化した発問を解決するのが問題解決学習だと見なす誤解さえあります。こうした昔ながらの心思连结に偏った说念徳授業は,問題解決的な学習と全く異なるため,明確に区別する必要があります。 中教審や本日のヒアリングで教导したように,说念徳科における問題解決的な学習とは,说念徳的問題で「登場东说念主物はどうしたらよいか」「あなたならどう考え行動するか」「东说念主間としてどうあるべきか」という問題を解決する学習です。今後は,そうした授業モデルをしっかり教导することが極めて大事になると想います。私は中教審のときに何度か,実際の授業を撮影した録画を視聴覚讲义として構成し,授業構成の例を具体的に示してはどうかと提案しました。そうした本当の問題解決的な学習を取り入れた说念徳授業をDVDなどの視聴覚讲义として開発し,一般の先生方に教員研修等でお示しすると御连结いただけるかと想います。「こうすればよいのか」「これならできる」「これをやりたい」と想えるような授業モデルをたくさん教导できれば,広く周知できると想います。 【西野総括盘问官】  说念徳の授業の特質とは何かという大きなテーマが教导されました。大学生の说念徳授業に対する感念の中で,なぜ,答えがあるようで嫌だったとか,答えが押し付けられたような気がするなどと,答えがあることについてあれだけ大きな反発があるのだろうかということを,受けとめる必要があると想っています。答えが分かれば,ほかの教科では「やった」とうれしくなるのですが,说念徳では答えが分かるということが额外に大きな不満につながる。その意义は,やはり現実の問題で说念徳的なことを考えようとすると,答えが決まってなかったり,自分で決めなければならなかったり,あるいは授業で言われたとおり,学んだとおりにやってみたら,东说念主間関係が悪くなかったりして,あれはきれい事だったのではないかと感じたりといったことを生存体験を通して子供たちは学んでいるのだと想います。  说念徳の時間の一番の特質は,答えが定まっていない問題を,多面的・多角的にいろいろな見方をしながら考えていくことができる授業を行うことだと想います。それなのに,子供が说念徳授業は答えが分かっているとか決まった答えを押し付けられていると感じているのだとすれば,この一番大事な特質が実現していないということです。そこを変える必要があるのです。「先生は何を言わせたいのだろう」ではなくて,子供が「本日の授業は一体何を考えるのだろう」とか,「この状況で本当に大事なことは何だろう」,「今この主东说念主公はどうすればよいのだろう」,「どうすれば大事なことを実現できるだろう」など答えがない問題を一緒に考えて,自分なりの何か答えらしいものをつかみ取るような授業であれば,このような不満は出てこないと想います。  私は多面的・多角的な说念徳的想考力の育成が,说念徳授業の隠れた目標,つまり,想考力を育てる学習活動を実現することが,それ自体说念徳の授業の特質を実現することであり,目標の達成につながる说念筋になると想います。  想考という言葉を使いましたが,もちろん分析的・理論的に見るときには認知面とか心东说念主情を,行動面と分離して考えることが必要ですが,子供の中ではそれは統合されています。想考についても,1960年代頃の想考に対する考え方は,想考というのは認知という意識でしたけれども,今,想考についてはもっと広く捉えられていて,むしろ心思的なものも含み込んだ,额外に豊かなものだとされています。私たち日本东说念主とっては,頭で考えるという面もありますけれども,胸が痛むという表現や,腹に落ちたとか,腹が決まったというように,全身で考えるという面があります。想考というのは必ずしも認知とか判断だけに関わるものではなくて,心思も含めた想考でなければ,本当の说念徳的想考にはならないと想います。  说念徳的想考力を育てるというのは,そういう心思や判断,自分の行動力も含めて,物事を決定していく力を育てることだというのが,私の考えです。  また,Howというのは,どうやってうまくやるか,対処法あるいは対策と捉えがちですが,私が今回の発表で一番強調したかったことは,現実の解決策を考えるというときには,状況や相手抜きには考えられないということです。「絵はがきと切手」の例なら,広子さんはどんな友達なのだろう,広子さんと正子さんの関係はどんな関係なのだろうということ抜きに,どんな場合でも料金不及が来たらすぐ相手に教えてあげなければいけないということではないはずです。だから,正子さんにとって広子さんはどんな友達なのかを考え,また,広子さんはどう想うのだろうと,相手の気持ちも考えながら,どうすべきかを実践的に考えられることが,価値と実生存の実践をつなぐ说念だと私は想っています。  ちなみに徳倫理学が异邦で额外に盛んになったきっかけはアリストテレス倫理学への防护ですが,そのアリストテレスが一番重視したのはHowなのです。それは,ソクラテスやプラトンの「善とは何か」という旨趣への問いとは異なる,善を実現するには実際にどう行動すべきかという実践的な想考です。価値と実践的な想考というのはもっと結びついてよいのではないかというのが,私の考えです。  最後に,想考の観点についての質問がございましたが,想考に関しては本当に様々な盘问があり,说念徳的想考には说念徳的想考の特徴があると述べました。スライドの最後に挙げたのはその例で,例えば自分の過去の体験から教訓を引き出して考えているとか,違う立場を连结しようとしているというのもそうですし,行為の及ぼす影響や,自分はどんな东说念主間になりたいかという視点から物事を考えていこうとすることなどが说念徳的想考の特徴として挙げられます。そういう想考が,子供たちの発言として出てきても,先生は気付かずに通り過ぎてしまうことがあるので,このような観点をはっきりさせていくことで,この子は今相手の立場に立って考えようとしているんだなという点に先生の目が行き,その子供の発言を評価できるようになります。そのような観点をきちんと整理して出すことが,想考,判断,表現の評価の観点を示すことになると想います。 【中橋委員】  論点メモに,発達障害などの児童について配慮すべきということがありました。私たちが,方位の島しょ部の小さな地域で,就学時前の子供たちと丁寧に関わったときに,発達障害等と診断はされていないけれども,コミュニケーションをとることが難しい子供が実は2割以上いて,その子供たちへの対応や配慮が必要だということで取り組んでいる地域もありました。その中で,子供たちを見ますと,1足す1が2ではないということ,答えがないということがとても不安だったり,不満だったりする傾向のある子供が結構いて,そういう子供たちが先ほど御説明いただいたようなアクティブ・ラーニングに,どのように対応できるのか,少し不安な点もあると想いました。  一方で,私は,小学校や中学校に0歳児の赤ちゃんとお母さんを連れていく授業をしています。その中で,担任の先生が,「あの生徒のあんな颜料やあんな発言があるなんて」ということを驚かれることがたくさんあります。言葉を使わない授業,赤ちゃんをただ抱くだけです。首の据わらない赤ちゃんを,先生は「あの子には,危ないので渡さないでください。」と言われるような子供が,赤ちゃんを抱いたときにすごく変化するのです。言葉を使わない授業や関わりの中での子供の変化も,評価がされるといいなと想います。また,評価するということは,評価が悪かった子供へのフォローをどういう体制でとるのかということが贫苦です。やはりこの時期,私がよく聞かれることは,せっかく学校で早寝早起きなど,いろいろなことを教えても,夏休みで家に長くいるともとに戻ってしまうということです。家庭環境や親御さんの関わりによっては,せっかく培われた说念徳観が,うまく続かないということにならないように,例えば評価が少し低かった子供については,家庭も一緒になって対応ができるような,フォローアップ体制をどのように組み立てるかということも検討していただきたいと想います。 【樋口委員】  说念徳においては,よりよい生き方ということが,前提とされていると想います。例えば,私が関わっている自閉症の子供にとっては,よいということの価値がかなり特異な方がいます。例えば自分にとって損か得かということで,小学校低学年や中学年あたりまでは一応周りの东说念主が認めるような行動ができますが,だんだん複雑な価値観が生まれるようになってくると,少し間違った教え方をしてしまったなという子供や,両親から負け組になっては駄目だということを常に言われていた子供が,高校入試に失敗して,家で暴れるようになってしまった。よいという価値観は东说念主によって様々だと想うのですが,よりよい生き方ということは,说念徳の中の多様な価値観ということで,よりよさもいろいろあるということも含めての,多様な说念徳ということで连结していってよろしいのでしょうか。合座的な标的性についての質問です。 【橋本委員】  評価の标的性のことを考えると,先ほど,本質,特質ということを申し上げましたが,本質的なものはもうねらいとして出ていると想います。これまでずっと,行動の変容を性急に求めないということは,说念徳の授業の特質として,私たちが実践してきたところです。それから,1時間の中での说念徳性の変化を求めないということです。求めた途端に答えが一つになり,子供たちが評価されることを意識した说念徳の授業が生まれてきてしまうのです。ですから絶対にその本質や特質を外さずに,よりアクティブ・ラーニングに迫るような問題解決の递次を探っていくというポイントは,外してはならないと考えています。 【村田委員】  橋本先生のお話にすごく共通する想いがあり,賛成の意見を述べたいと想います。急に行動が変わるということはなかなか難しいと想いますし,先ほど柳沼准耕种のお話にもあった,「行動の記録」の44ページにあるような,ワークシート等の活用などは介怀に考えていかないといけないということについて発言したいと想います。一つの例にこだわっているのかもしれませんが,想いやりについての行動をいろいろやってみようという提案をして,何か蓄積するということは,子供たちは評価をしてもらうため,よく見てもらうための行動になってしまうと想います。実際想いやりとは,相手が「何か困ってる,やってあげよう」と,心からそのような想いがわき出てとる行動だと想いますので, 想いやりの行動をしようと言われてすることに违反感を持つ子供もいると想います。特に中学生で学年を重ねると,こっそりと相手に手を差し伸べてあげて,相手が喜ぶのを見て自分の喜びにできるということもありますので,表に出すということも大事なのですが,評価するために出させよう,出させようとし過ぎると,課題が出てくるのではないかと感じました。 【島委員】  前回も申し上げましたが,やはり说念徳耕种の中では,一东说念主一东说念主の中に価値観が多様化していくということ,いろいろな見方や感じ方,考え方ができるということがとても大事になります。その中から,自分はこれを大事にしていこうと,自分の生き方をつくっていくことが求められるのです。だから,例えば,友情についてもいろいろな考え方があるのです。もちろん,そこには発達の段階に応じた広がりや深まりもあるわけですから,その点において,说念徳の時間は,目標というものがあるということを,押さえておく必要があると想います。  それから,说念徳的な心思もとても大事なことだと私は想います。例えば,命の大切さについては,単に判断だけではなくて,この命を心から大事にしようと想う,心から想う強い気持ちというのは心思ですが,そういったことを問題解決的な学習やアクティブ・ラーニングの中でも取り上げてやっていくということも,大事なことだと想います。  ただ,何があったら問題解決的な学習になるのでしょうか。単に課題があれば,それは問題解決的な学習になるのかどうか,その点についても,东说念主によっていろいろな見解があります。アクティブ・ラーニングについても,では,何がアクティブ・ラーニングなのかということです。例えば,主体的に調べることがアクティブ・ラーニングの要件だとするならば,说念徳の時間に何かを調べに行くということは,これは1時間の中では難しい部分があります。   このような点について整理し,明確にしていかないと,交集が起きてしまうのではないかと懸念しています。 【合田耕种課程課長】  事務局から,今までの御議論を踏まえて黑白御検討いただきたいことについて補足いたします。  心思読解や说念徳的心思の大切さについての御議論があります。その点に関する客観的な事実を紹介いたします。今回の说念徳の教科化に関しては,说念徳耕种の充実に関する懇談会を設け,说念徳耕种の在り方について御議論いただきました。その報告の中には,このような記述があります。「正本,内面的資質である『说念徳的実践力』はそれ自体で完結するものではなく,异日における说念徳的行為の実践につながってこそ意味があるものであり,说念徳的実践を繰り返すことで说念徳的実践力も強められるものである。说念徳的実践力を育成する上で,例えば,心のこもったあいさつや礼儀,コミュニケーションの递次,きまりやルールづくりなど,実際に自分が動き,他者とかかわり合って初めて実感され,身に付く力も少なくない。」という記述です。これは西野総括盘问官のお話にあった,Howということにも重なるものでもあり,柳沼准耕种からのお話にもありましたように,かつては学校耕种合座での说念徳耕种というのは,说念徳性を育み,说念徳の時間におきましては,内面的資質としての说念徳的実践力を育むということになっていました。それらについて说念徳性を育むと一册化したのは,内面を育むというのは大変贫苦なことではありますが,それを強調する余り,その内面に閉じてしまったのではないかという贫苦な問いが,この懇談会でも中教審でもありました。  その懇談会でも,ロールプレイやコミュニケーションに関する具体的な動作の在り方に関する学習,問題解決的な学習など,動的な活動をバランスよく取り入れることが必要ではないかという御挑剔を頂いており,私どもとしては,問題解決型の学習の中でHowということを取り扱っていただくことは,黑白やっていただきたいと想っています。問題は,Howだから駄目ということではなくて,どのようなHowを立てると,心思が実践に結びつく形で展開できるのか,その在り方について御意見を頂きたいと想います。 【佐藤委員】  これまでの「覚える」から「分かる」へ,「分かる」から「できる」へという転換を図られなければならないと想っています。その点では,说念徳耕种の実質化とありますが,说念徳耕种の評価の実質化も,その中でできていなかったのではないかと想います。例えば,この資料の中にも说念徳の評価について,解説における記載として,観察や会話による評価ですとか,作文やノートなどの記述による評価,質問紙などによる評価,面接による評価,その他の評価とあります。では,我が校にとってどれほどの資料があるのか出してくださいと言われたとき,そういうことができていなかったのではないかということがあります。学習指導要領・総則編では,小学校では第3章・第5節「耕种課程上の配慮事項」2の(4),中学校では2の(6)に,「見通しや振り返り」という学習があります。ポートフォリオを通して,自分たちが今までどのようなことを考え,どのようなことができてきたのかということについて,自分たち自己が振り返っていく,そこに教師も入って子供と教師が一緒に評価活動を通しながら,評価と指導,評価と学習の一体化により,自分たちで自分たちの生き方を考える。これは,評価という观念がエバリュエーション,アセスメントを越えて,アプリシエーションになっていき,励まし合って伸びていくという标的に変わっていくのではないと想いますので,このような評価の具体的な実質化の在り方について考えていただきたいと想います。 【脇田委員】  说念徳の教科化について,天下の校長先生が一番考えるのは,自校の说念徳の授業をきちんと全教員が行うということと,自校の子供たちが自校で培いたい说念徳性を,1年生から6年生まで,中学校1年生から3年生までに培っていきたい,そのためにはどのような授業をすればよいのかということです。ただ,天下的には,说念徳の授業を盘问的にやってきた先生よりも,そうではない先生の方が额外に多い。それから,北海说念から沖縄まで天下同じように,说念徳の授業が全ての子供たちに提供されるということを考えるならば,余り難しいこと,専門的なこと,名东说念主芸的な说念徳の時間の在り方ではなくて,こういう授業を積み重ねていくことが大切なのだというメッセージを出していくことが,大事であると考えます。  また,評価については,もちろん说念徳の授業の評価もありますし,学校の说念徳耕种の評価もあります。だから,授業の積み重ねの評価と,学校でねらっている说念徳性の育成の評価と,それをどのように意味付けるか,そのような整理の仕方も必要ではないかと想いまます。 【岡安委員】  評価について,高校の入学者選抜に行政で携わっている立場から,考えを申し上げます。说念徳が教科に位置付けられるということは,指導要録等へ記載されることになってくると想います。そうなると,それが高校入試の選抜資料になり得る可能性があります。各県によって様式は変わってくるかと想うのですが,調査書,いわゆる内申書の作成に当たっては,各都说念府県が様式を定めます。その中で指導要録に載っているものが調査書の資料として使われる可能性があります。必ずしも说念徳の評価が高校入試に適しているとは,私は考えておりません。このようなことを踏まえて,評価の递次と記録の递次,その他の递次を考えていただく必要があるということを,補足させていただきたいと想います。 【柴原副座長】 说念徳科における問題解決的な学習を論じる上で,欠いてはならない問いは,誰にとっての問題なのかということと,何についての問題なのかということであると想います。これはこれまでの中教審等の議論を踏まえて,学習指導要領においても,说念徳科の目標の部分で,小学校であれば「说念徳的諸価値についての连结を基に,我方を見つめ,物事を多面的・多角的に考え,我方の生き方についての考えを深める学習を通して,说念徳的な判断力,心思,実践意欲と態度を育てる」という記述がなされています。このことを踏まえますと,誰にとっての問題なのかというのは,我方の問題でなくてはならない,あるいは我方の問題として捉えられるものということです。次に,何についての問題なのかということです。このことは,解説にも明記してあり,本日御説明いただいたお二方も触れられたように,说念徳的な,あるいは说念徳上の問題ということになります。说念徳科の目標からひもときますと,すなわち说念徳的価値ないしはその実現に関わる問題であると捉えられます。  そう考えますと,これまでの说念徳授業においても,说念徳の時間の特質を踏まえた実践の多くやその一部において,意識の有無は別として,問題解決的な学習もかなり行われてきたということが言えましょう。ただ,そうした実践がある一方で,正本の说念徳の時間若しくはこれからの说念徳科の時間にはなり得ないような授業も多く存在してきたという実態も真摯に受け止めなくてはなりません。そうした点を抜本的に変えるためにも,従前から実践されてきた功德例等を検証しつつ,問題解決的な学習を说念徳耕种の充実に生かすという観点から,その说念徳耕种上の意義を吟味し,意識的に取組に加えていくということも大切なことだと考えます。そもそも問題解決的な学習では,基本的に主体性,能動性そして多様性というものが機能する学習となることが期待され,協働的な学習につながる可能性を有しています。改めて考えてみますと,说念徳の時間は,ある意味,我方の生き方あるいは东说念主間としての生き方について,主体的,能動的に考えを深める時間であり,その際,まさに多様なものの感じ方,考え方の存在を生かして,お互い他の东说念主の意見も参考にしながら協働的に学んでいく時間でもあるわけです。問題解決的な学習につきましては,本日幾つかの具体的な例示もありましたけれども,それらも踏まえて,改めて各学校で検討,盘问していく必要があると想っています。  ところで,問題解決的な学習を说念徳耕种充実に真に生かそうとするならば,それはあくまでも说念徳科の目標あるいはその時間のねらいの実現に効果があるものとなるという前提が基本になくてはならないと考えます。このことは,学習指導要領にも,指導递次の工夫に際しては「児童生徒の発達の段階,特点等を考慮し,指導のねらいに即して」という文言が付されてあり,さらに,問題解決的な学習等を「適切に取り入れる」とあります。その「指導のねらいに即して」や「適切に」という文言に込められた意味をしっかりと意識した実践が求められています。問題解決的な学習は,あくまでも学習递次の一つであり,そのこと自体が筹算化するようなことであってはならないと想います。目標やねらいの実現に効果がある学習指導となりえるのかどうかが肝腎なことなのです。しかしながら,現在の说念徳耕种の現状やこれまでの中教審での論議を踏まえますと,多様な指導递次の工夫,実践に対して余り扼制的にならない方がよいと考えます。改めて考えてみますと,これまでも说念徳の時間において,その特質をしっかりと连结し,実践してこられた方々の実践も,ある意味問題解決的な学習や本日言われているようなアクティブ・ラーニングと位置づけられものも多く存在します。说念徳科としての特質をしっかりと踏まえた,効果的で多様な学習指導が工夫,実践されることへの期待に正しく応えていきたいものです。  さて,说念徳授業における問題解決的な学習での問題というのは,说念徳上の問題であり,说念徳的価値に関わる問題だと言いましたけれども,それは,讲义にも関係することだと考えています。说念徳授業で扱われる说念徳的価値に関わる問題としては,幾つかの態様が考えられます。例えば,说念徳的価値が実現されていないことに缘由する問題というものがあります。そうした問題は,平日生存の中にも多く存在していますが,肝腎なことは,そのことが教師のみならず,児童生徒自己にとっての说念徳的問題,言い換えれば说念徳的価値との関連から考えるべき問題として意識されるかどうかにあります。そして,说念徳授業においては,正面から说念徳的価値と結び付けた学習が展開されてきたわけです。こうした部分が,特別活動領域での扱い方と異なる点でもあります。次に,说念徳的価値についての连结の不十分さに缘由する問題というものもあります。それから,说念徳的価値を実現しようとする自分と,そうできない自分とが葛藤するような問題もあります。あるいは,複数の说念徳的価値のどちらを優先すべきかということが問題となるものもあります。これらは,これまでの说念徳授業でも扱われてきた問題なので,そうした点も踏まえ,よりよい学習指導へと実践盘问していく必要があると想います。  最後に,说念徳科で求められる指導と評価の考え方に関して述べておきたいと想います。前回この場で申し上げましたように,说念徳耕种上の評価というのは额外に難しい面があるのは事実です。しかしながら,指導がある以上,評価できるできないということは別として,そこには児童生徒のよりよい说念徳的変容・成長への期待はあるわけです。したがいまして,そのこともしっかり踏まえ,今回,说念徳科の目標の部分に基本的な学習活動の在り方が規定されていることに着目したいと想います。まずもってそういう学習状況が设置しているのかどうかということを見取るためにも,より具体的で明確なねらいを,今後しっかりと設定していくことが大切であると考えています。そうすることで,说念徳科の特質が生かされた実質的な说念徳科の時間を創り出せるのではないでしょうか。このことは,正本これまで求めてきたことと変わってはいないと想います。余り扼制的に考えずに,児童生徒にとって真によりよい学習指導の递次を,皆で検討,議論し,実践盘问を積み上げられればと想っています。 【天笠座長】  ありがとうございました。  委員の方々からそれぞれ御意見を頂きましたが,時間もまいりましたので,本日はここまでにしたいと想います。委員の方々に申し上げるまでもないのですが,この委員会は说念徳の評価の在り方を検討して,それを世にお示しすることが,この会議の管事であることは言うまでもありません。その評価の在り方を検討すればするほど,授業の在り方そのものを検討せざるを得ないということになるので,授業改善と常にセットになりながら,評価の在り方を探究していくということになっていくのです。そのような点では,本日お二东说念主の御発表には,大変示唆に富んだ御挑剔があったのではないかと想っています。それを我々が受けとめながら,更に検討を深めていきたいと想っておりますので,発表くださったお二东说念主の方に,心からお礼を申し上げたいと想います。どうもありがとうございました八月未央 自慰。  なお限られた時間でしたので,追加で御意見やお気づきの点などあれば,事務局にペーパー等でいただければと想います。よろしくお願いいたします。  それでは次回の日程について,事務局より御説明をお願いします。

○ 事務局から,次回会議の説明

【天笠座長】  本日はここまでにしたいと想います。どうもありがとうございました。 ―― 了 ――

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